写真家 岡田敦 - Office Okada | Official Blog

I kiss the world by taking the photograph

■ 北海道新聞に寄稿しました

北海道新聞(9月22日朝刊・金曜)に寄稿しました

ご意見・ご感想は下記のメールアドレス宛にお寄せください。頂いたご意見・ご感想は、個人情報をふせ、ユルリ島に関わる活動でご紹介させて頂く場合がございますので、あらかじめご了承ください。

Mail: message@okadaatsushi.com

#岡田敦 3


北海道新聞(9月22日朝刊・金曜)

 北海道根室半島沖に浮かぶユルリ島には、かつて昆布漁の労力として島に持ち込まれた馬の子孫が、無人島となったいまでも生きている。多い時には約30頭の馬が生息し、給餌を受けず、交配や出産は自然にまかされた。家畜としての役割を終え、島で自由に生きる馬の姿を見て、人はこの島を「馬の楽園」と呼んだ。エトピリカやケイマフリが囀り、立擬宝珠(タチギボウシ)や釣鐘人参(ツリガネニンジン)などの白花品種が咲き乱れる。貴重な生態系の中で命を紡ぎ、島の環境に順化してきた馬たちは、根室の歴史や風土が生みだした文化遺産とも言える。しかし2006年、元島民たちの高齢化もあり、牡馬が島から引き揚げられ、馬はやがて消えゆく運命となった。根室の昆布漁や馬産の歴史を振り返った時、その象徴的存在だったユルリ島の馬も、今年の初夏には3頭にまで減ってしまった。

 日本の馬の歴史を調べていた時、北方領土でかつて日本人に飼われていた馬の存在を知った。その馬は「千島馬」と呼ばれ、戦前の北方領土で自然放牧されていたという。冬になると馬は山間部の森林内でも生息し、餌がなくなると海岸に打ち上げられた昆布や魚を食べていた。その頃の北方領土は馬産地としても知られ、根室を合わせれば13,000頭もの馬がいたという。当時は漁師も馬を飼い、昆布を運ぶのも、舟を引き上げるのも馬だった。しかしロシアに占領されてからは、千島馬は食料化され減ってしまったらしい。
 千島馬の始まりは、漁場を求めて北方領土に渡った人たちが、漁を終え引き揚げる際、使役のために連れていった馬を原野に放ったことだと言われている。冬の間に森で野生化した馬たちは、翌年また漁に訪れた人たちに使役され、新たに連れてこられた馬と共に、漁が終わると再び原野に放たれた。越冬し生き延びた強い馬は、世代を重ねながら島の環境に順化し、やがてこの土地に適した耐寒性のある頑健な馬が誕生した。“自然に打ち克つことのできる、強い馬でなければ生き残れない”という環境の中で、馬は時代や人間に翻弄された生き物のようにも映るが、日本在来馬のように、千島馬もまたこの地域の歴史や風土を伝える文化的所産のように思う。

 今年5月、北方四島交流事業で国後島に行く機会を得た。初めて見る国後島の景色は、遠い過去の日に目にした風景を辿るようで懐かしかった。河原で馬の親子が草を食んでいる。柵で囲われているわけでも、逃げないようにロープで繋がれているわけでもない。所有者がいるのかも分からない馬と何度もすれ違った。かつて北海道でもこうした光景が広がっていたのだろう。
 視察先の図書館や博物館で、千島馬のことを尋ねた。ロシア人の男性が「日本人が出ていった後、多くの馬が島に残された。大きくて強い、重量のある馬だった」と教えてくれた。「千島馬の子孫はまだ生きているだろうか」と聞くと、「国後では特別な繁殖は行われず、馬は不規則な交配を続けた。だから私は、日本の馬の血が、国後の馬に残っていることを疑わない」と彼は答えた。そして「機械化が進む中で、国後の馬は急速に減少していった」と続けた。
 「culture」という言葉は、「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来する。「土地を耕す」ことが「心を耕す」ことに転じ、「文化」という意味を持つようになったのだろう。その土地の歴史や風土、あるいは将来に受け継ぐことのできる文化であっても、それを耕し、育てなければ、気づかぬうちに失われてしまうものもあるのだろう。
 国後の河原で草を食んでいた馬の親子は、千島馬だったのだろうか…。やがてなくなってしまうのかもしれない光景を思い、いま改めて「文化」というものを考えている。




ユルリ島 ウェブサイト
http://okadaatsushi.com/yururi_island.html

ユルリ島 YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com
 
 

テーマ:北海道 - ジャンル:地域情報

  1. 2017/09/26(火) 00:00:00|
  2. 作品「ユルリ島」関連