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写真家 岡田敦 - Office Okada | Official Blog

I kiss the world by taking the photograph

■ 「岡田敦『世界』レポート。美の視点についての一考察」 木下 恵修

「岡田敦『世界』レポート。美の視点についての一考察」 木下 恵修

■ 第二章

 『世界』のテーマのひとつは、美しいと感じたものを、そのまま美として捉えることだった。苦のイメージをともないながらも、その先にある救いのような美の感覚。また、背景としての物語に左右されない意識など。作中にあるリストカット女性の腕や、東日本大震災による津波の後の岸辺、また木々が倒れて沈んでいる森の池などは見る者によって、美そのもの、あるいは崇高になるというわけだ。
 いっぽうで、震災後風景のような写真を「美しく撮る」といった表現は、ある種タブーの範疇とする社会通念がある。たしかに、背景を知る者にとっては、おぞましい苦のイメージそのものかも知れない。だが岡田は、そこを避けて通ることをせず、あえて表現に落とし込んだ。ただし、奇をてらった凡百の発想からではない。この点について岡田は、「もともと三陸地方という美しい海がある場所に人が集まり、町ができ、生活が営まれた。不幸にも津波でそれらは流されたが、その様が美しいと言っているのではない。普遍としての存在が美しいのだ」と強調する。
 たとえば、森の池の写真を見て、そこにおぞましい苦のイメージを感じるだろうか。現代に生きるわれわれには、この過程は知り得ない。すなわち背景・物語を直接知らない人間にとって、美しい事象は純粋なる美以外の何物でもないことを意味する。それでも、記憶に新しい事象に絡んだ風景を美として純粋に表現するには、岡田が述べているように、表面的な美しさに気を取られない信念、また普遍を覗き見る感受性のようなものが必要なのだ。それは震災に絡んだ風景に限らず、あらゆる場面において言えることだろう。単なる好奇心だけでは、作家の作品と呼ぶに値するものは生み出せないということなのだ。そうしたなかで、作家であっても、言わば大人の選択として空気を読むこと、すなわち背景や物語に沿ってジャーナリストのようなイメージで発信しなければならないのか(それのみが許されるのか)。ここに、岡田の問いがある。「このような線引きは、美(芸術)の世界に必要か」と。。。
 いつかの将来、東日本大震災を知らない人々が、あるいは外国人が、津波後の岸部を見て純粋に美しいと感じても、それを不謹慎と断罪する人はいないだろう。美しいと思うものを見て、心から「美しい」と感想を述べる。美しいものを、ただ美しいと言う。それだけのことなのだから。。。あえてそれらを口にしない「空気」があるとすれば、それはある意味「裸の王様」的な、大人による無用な足かせに他ならない。
 こんな気づきのエピソードがある。岡田が北海道に帰省し、甥っ子と遊んでいたときのこと。甥っ子が喜びながら岡田に駆け寄ってきて「蝶々をつかまえたよ!」と手をそっと開いた。覗き込んだ岡田の目に入ってきたのは、蝶ではなく、一匹の蛾だった。だが岡田は甥っ子に合わせ、喜んでみせたという。一般的に大人は、蛾に価値を見出そうとしない。だが蛾を知らない子供にとっては、蝶と差別する理由もなく、純粋な美の対象だった。

 岡田は「いつか、こうしたアプローチも、普通のことになるだろう。そのときになって発表するのでは遅すぎる」と述べる。つまり「空気を読まず」に、『世界』にて作家らしいアプローチをまっとうした行為は、新たなパラダイムの発信であったとも言える。また『世界』は、単に岡田の世界観を表したという意味でつけられた名称ではない。これは、大げさに言うならば「私写真の範疇からの大いなる脱出」であり、一作家の内面というよりも、もっと広い、普遍性である。


◇ 木下恵修(キノシタ・ケイシウ)
1973年、福岡県生まれ。東京工芸大学大学院芸術学研究科写真領域修了。修士(芸術学)。大学ティーチングアシスタント、広告会社、写真誌出版社などを経て、現在フリーランスのライター・編集者として活動中。国内最大のフォトグラファーズ&フォトビジネスフェア「PHOTONEXT」の企画運営にも携わっている。

#岡田敦 #世界 #赤々舎
 
 
  1. 2013/11/08(金) 00:00:00|
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